こんにちはritaです。
中村梅雀さんがファミリーヒストリーに出演
されますね。そこでは祖父の三代目・中村翫右衛門
(なかむら かんうえもん)さんが特集されるようです。
中村翫右衛門さんの人生のキーワードを
なレベルだけでも凄まじいとしか言いようがない
人生模様が浮かび上がってきます。
例えば、破門、新団体結成、共産党員、
レッドパージに亡命、凱旋などなど…
そんな激動の人生を送った
中村梅雀さんの祖父・中村翫右衛門さんの
の亡命理由や、破門された理由。
共産党との関係や新団体結成から凱旋まで
気になる点を纏めて調査します!
もくじ
中村翫右衛門:中村梅雀の祖父のウィキ風プロフィール
中村翫右衛門さんは
1901年2月2日生まれ
没年は 1982年9月21日。
戦前、戦中、戦後と正に激動を時代を生き抜き
81歳と高齢で他界されています。
歌舞伎役者で前進座創立者の1人と
大きな活躍をされた大人物です。
本名は渋くて”三井金次郎”と言われます。
財閥の香りが漂う高貴な印象を受けるのは
僕だけでしょうか。
中村翫右衛門さんのお父さんは
二代目中村翫右衛門。
お兄さんは三代目中村仲助さん。
子供は四代目中村梅之助さん。
お孫さんは今回の”ファミリーヒストリー”で
ご出演されている二代目中村梅雀さん。
そして奥様は落語家の二代目談洲楼燕枝の娘さん。
まさに歌舞伎一家の祖として
君臨される大人物ですね。
そんな三代目 中村 翫右衛門さんの
初舞台は1906年(明治39年)。
東京柳盛座『山姥』で烏天狗役です。
1911年(明治44年)には、
五代目中村歌右衛門さんの門弟となられて
三代目中村梅之助を名乗られます。
1920年(大正9年)には、
歌舞伎座で名題に昇進されます。
そこで三代目中村翫右衛門を襲名されるんですね。
中村 翫右衛門・松竹脱退と破門の理由
1929年(昭和4年)に、
三代目 中村 翫右衛門さんの歌舞伎への情熱から
でしょうか。
旧態依然とした歌舞伎界を批判して松竹を脱退されます。
師匠からも破門されてしまいました。(゜レ゜)
大きな転換期ですね。
そして二代目市川猿之助の「春秋座」に参加しています。
破門されても諦めない。
そんな情熱を感じさせるのが
中村翫右衛門さんなんですよね。
後述させて頂きますね。
中村 翫右衛門・前進座を結成!
破門されても諦めないのが
三代目 中村 翫右衛門さん。
破門から2年後の1931年(昭和6年)に
四代目河原崎長十郎さんや
五代目河原崎國太郎さん達と
”前進座”を結成されます。
そこで
中心俳優となり更に大活躍されます。
先進的な形を目指していたのでしょうね。
歌舞伎をベースとした新しい演劇を目指す一方で、
映画にも出演されます、
山中貞雄監督の『街の入墨者』や『河内山宗俊』、
『人情紙風船』などに出演されています。
ざくっと見ても
激しい時代に激しい情熱を持って
懸命に行動されてきた
三代目 中村 翫右衛門さんの姿を
イメージしますね。
この前進座という名前がいいですよね。
ラグビーのひたすら前へ進む。
前進。
共鳴してしまいます。
ラグビー好きなだけに 笑。
中村翫右衛門と日本共産党
三代目 中村 翫右衛門さん。
戦後は座員ともども日本共産党に入党されます。
しかし、当時は連合国の占領下。
日本には、マッカーサーの指令による
レッド・パージが広がり、
興行が弾圧されるようになっていました。
そして事件は起きます。
亡命に繋がる大事件を後述します。
中村翫右衛門の亡命理由と赤平事件
少々物騒なお話となり恐縮ですが、
1952年(昭和27年に)、北海道の公演で、
赤平町(現・赤平市)で会場を押さえていましたが、
小学校の体育館が当日になって突然使えなくなると
いう騒動が勃発してしまいました。
その結果、
小学校職員と劇団員が揉めてしまい
結果的に怪我人が出る事態に発展してしまいます。
なんとも血の気の多い時代ですね。
暴力、怪我人というワードが出ると大人の世界では
罰則が科されます。
そうです。
傷害・器物破損の容疑で逮捕状が出されたのです。
中村翫右衛門さんはこれから逃げる為に中国へ亡命
したと言われています。
この事件は北海道の赤平町で起きたので
通称、”赤平事件”と言われている有名な事件です。
予定していた会場が使えなくなっては
そりゃ劇団員の方も怒りますよね。
一人ならまだしも数十人が関わりますし、
お客さんもいるでしょう。
練習も積んで本番に備えていたことろで
まさかの会場使用不可。
よっぽど何かあったとしか
考えられないですよね。
共産党員ということで連合国軍から
レッドパージの影響で興業が抑制されて
いたのでその影響の可能性も考えれられますね。
詳しい内容は番組の”ファミリーヒストリー”内で
確認しましょう。
何か新しい情報が手に入るかもしれませんね。
中村翫右衛門が中国から凱旋帰国した時の画像
1955年。昭和30年の11月6日の
ことなので僕が生まれる随分前のことですね。
読者の方々も生まれている方は少ないのかも
しれませんね。^^
で
中村翫右衛門さんの三年ぶりに帰国。
当時は「凱旋帰国」とまで大きく報じられています。
こちらがその時のお写真です。
場所は羽田空港での一コマです。
https://ja.wikipedia.org/
一時亡命先の中国は北京から
帰国された時の模様です。
中央で抱き合っている二人の
男性の右側の方です。
濃紺のスーツに眼鏡をかけているのが
三代目中村翫右衛門さんですね。
抱き合っている左側の男性が
出迎えにきた四代目河原崎長十郎さんですね。
そして周囲には前進座団員の一同さんがおられます。
よく見ると
皆さん笑顔で白い歯がこぼれているのが
分かりますね。
三代目 中村 翫右衛門さんも心からの笑顔の
表情をされているように見えます。
もうこれは感無量でしょうね。
自分の仲間達との再会。
その間3年。
自分が帰れる場所があるっていうのは
本当に幸せなことですよね。
人との繋がり。
そこにある人への思い。
人間関係は面倒くさいと思う時も
ありますが、人間関係の重要性を感じる
時もこういう瞬間に思いますよね。
大切な人との関係。
一点だけでいい。
深い、信頼出来る自分が変えられる場所。
本当の自分をそのまま出せる場所。
そういうmy homeがあるのが人生を豊かに
するのでしょうね。
おっと、
話が大きく脱線してしまいましてすみません<(_ _)>。
三代目 中村 翫右衛門さんの
感動の再会の一こまでした。^^
パチパチパチ!
まとめ
ということで今回は、
・中村翫右衛門:中村梅雀の祖父のウィキ風プロフィール
・中村 翫右衛門・松竹脱退と破門の理由
・中村 翫右衛門・前進座を結成!
・中村翫右衛門と日本共産党
・中村翫右衛門の亡命理由と赤平事件
・中村翫右衛門が中国から凱旋帰国した時の画像
について調査させて頂きました。
古臭い言葉で恐縮ですがやっぱり自分の人生、
自分らしく生きたいですね。
その意味で
中村梅雀さんのご祖父・中村翫右衛門さんは
まさに自分の人生を生きたと言えるのでは
ないでしょうか。
僕は自分の人生を生きているのだろうか?
考えさせられますね~^^
コメント
前進座赤平事件とは赤平市豊里小学校の興業のことと思います。当時、父が豊里炭鉱労組の組合長をしていました。小生は小学校低学年でした。事件の詳細を知ったのは何十年後のことです。でも当時のことで忘れられないことがあり、投稿することにしました。
事件の数日前に、自宅(炭住)に数人の方が集まり「官憲の突入をどう止めるか」「どうやって逃がすか」等を話し合っていました。襖1枚隔てた布団の中で寝た振りをしながら聞いていました。、今でも、しっかり覚えています。