巨人ドラフト1位を拒否した小林秀一が巨額の契約金と名誉を拒否した驚きの理由【消えた天才】





引用:https://www.sponichi.co.jp/

「消えた天才」

ドラフト史上唯一巨人1位指名を

拒否した天才投手・小林秀一さんって

どんな人なんだろう?

純粋に興味が沸きましたので

調査します!

ちなみにこちらが番宣です。

めちゃくちゃ見たくなるのは僕だけでしょうか ^^

『消えた天才』6/23(日) ドラフト史上唯一 巨人1位を拒否した天才!!【TBS】

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巨人ドラ1を拒否した天才・小林秀一のWik風プロフィール

小林秀一さんのWiki風プロフィールはこちら!

国籍   日本

出身地  熊本県天草郡大矢野町(現:上天草市)

生年月日  1951年4月20日(68歳)

ポジション  投手

経歴

八代第一高等学校

愛知学院大学

熊谷組

愛知学院大学(監督)

熊本県天草郡大矢野町(現:上天草市)出身。

小学生の頃から野球を始め、投手として活躍。

1967年、八代第一高等学校(現:秀岳館高等学校)に進学。

親元を離れ、寮生活をしながら野球に取り組んだ。

1年時はオーバースローであったが後にアンダースローに転向。

1969年、3年生の時には夏の甲子園県予選を勝ち抜き、中九州大会に進出。

準決勝で前年の大分県代表だった津久見高の2年生エース浜浦徹に投げ勝ち、決勝

へ。

決勝で大分商に敗退し甲子園出場は実現しなかったが、

地元マスコミから“八代第一に小林あり”と呼ばれるほどの活躍を見せた。

1970年、野球の才能を買われて愛知学院大学へ進学。

4年時にはエースとして活躍。

愛知大学リーグでは、1973年春季リーグ

で8勝を挙げ、チーム10季ぶりの優勝に

貢献し、最優秀選手に選ばれた。

同年の全日本大学野球選手権大会でも決

勝に進出、中大の田村政雄と投げ合うが

敗退、準優勝にとどまる。

同年の第2回日米大学野球選手権大会日本代表にも選出。

リーグ通算43試合に登板し21勝6敗、防御率0.93。

大学同期に外野手の迫丸金次郎がいた。

即戦力の右投げアンダースロー投手として評価され、

プロのスカウトからも注目

参照:https://ja.wikipedia.org/

アンダースローっていうのが

また天才を彷彿させますよね。

しかも熊本県出身!

さすが「肥後もっこす」ですね。

正義感が強くて、一度決めたらテコでも

動かない程頑固で妥協しない性格と

言われていますが、妙に納得して

しまったのは僕だけでしょうか。笑

僕の祖父も九州出身ですが、

熊本県民には尊敬を覚えますね。

流されずに自身で決断する。

かっこいい…

で、意外にも実はこの人も熊本出身なんですよね。

言われて見ると

熊本県民って皆さん凛として

格好いい…

引用: こんにちはritaです。 演歌の大御所・石川さゆりさんが、 誰だって波乱爆笑に出ら...

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巨額の契約金と名誉を拒否した驚きの理由

2019年現在で巨人のドラフト1を

蹴ったのは、小林秀一さん

ただ一人とのことですが、

その理由はこちらです!

1973年のプロ野球ドラフト会議で、

読売ジャイアンツから1位指名を受ける。

大学同期の迫丸も同じく4位で指名を受け後に入団。

迷っていたところ、

入団交渉のため名古屋のホテルで会った

同郷の

川上哲治監督と対面した際に

「(入社が内定している)熊谷組は

本業の仕事があり次に野球だが、

うちは野球で君を欲しいと思っている」と

言われたが、

仕事として野球を選んだわけではないと

考えていた小林はこの言葉で迷いが消え、

断る決心がついたという。

2019年現在、巨人から1位指名されて

拒否したのは小林のみ。

拒否した背景として、

当時はプロ野球経験者が引退後アマチュ

ア指導者に転進する場合、柳川事件など

の過去の経緯による

プロアマ規定によって制約が大きく、

特に高校生以上の学生野球や社会人野球の指導者に

なるのが困難だった事も影響している。

また50代半ばに受けたインタビューで、

プロアマ規定が緩和された今巨人に1位指名されたら

どうするかとの問いには「入団していたと思う」と

答えている。

小林の入団拒否当時、

周囲では「同年3月に起こった湯口事件が

影響しているのではないか」という噂が

飛び交っていたが、

前述の小林の証言等からそれとの関連はないとされる。

奇しくも、

巨人が小林に用意していた背番号は、

前年まで湯口敏彦が着けていた「19」であり、

1974年にそれを着けたのは小林秀一と同姓の、

同じアンダースロー投手である小林繁(前年は「40」)だった。

熊谷組に進み、1974年の都市対抗では

新人ながら2回戦で先発。

大昭和製紙北海道に0-1で惜敗するが注目を集める。

その後も1977年の大会、1979年の大会で

決勝進出に貢献するなど、

熊谷組には8年間在籍して活躍。

母校愛知学院大野球部の監督へ就任。

同大学野球部の監督としては愛知大学野

球リーグにおいて15年で12度の優勝を

遂げている。

脳梗塞で倒れ監督を退任した後は同大の准教授として教壇に立つ。

参照:

https://ja.wikipedia.org/

プロアマ規定が関係していたようですね。

最終的大学で野球を指導されておられるところから、

プロ引退後は指導の道も当初から考えられていたかもしれませんね。

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まとめ

はい、今日は、史上唯一巨人のドラフト1位を

拒否した天才投手、小林秀一さんが

多額の契約金と名誉を拒否した理由ついて

調査させて頂きました。

答えは、

当時はプロアマ規定によって制約が大きく、

特に高校生以上の学生野球や

社会人野球の指導者になるのが困難だった事が影響して

いるでしたね。

プロ野球へドラフト1位と言うと

一見華やかですが、確かに未来が保証されて

いるわけではないですもんね。

選手生命や守るべき家族、

引退後のキャリアプラン考えると、

勇気ある決断だなぁと思います。

僕だったらドラ1指名なんてされたら

浮かれてしまうだろうなぁ 笑。

まぁそんなことは絶対にありえませんが。^^

それにしても、流されずに自身の意思を貫く。

爪の垢を煎じて飲ませて頂きたいと思います!笑

それでは最後までお読み頂き有難うございました!

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